鄭成功(ていせいこう) 俗称・国姓爺(こくせんや)とも呼ばれた。 
 1624年生まれ1662年病没。

父・芝竜は元は海賊であり密貿易商であった。好く云えば海商とも呼ぶらしい、笑。
海賊といってもゲリラ的小規模なものではない。もっと巨大な力、政府軍や商売敵との抗争に打ち勝つ武力(軍事力)を持つ強大な一族の首領であった。

福松(鄭成功)は7歳の時に平戸から父の故郷・福建に単身渡る。
大陸に渡った頃には父・鄭芝竜は 一介の海賊から明王朝公認の「水軍」となっており(笑)、大陸沿岸の制海権をほぼ掌握し始めていた。
1644年、20歳になった成功は南京で勉学を始める。
この時すでに父・芝竜は実質的な福建王であり、日本及び東南アジアの海上のおいて最大勢力!となっていた。

ここで少し清朝の話を、、、

その頃の明王朝は、秀吉の「文禄・慶長の役」で李氏朝鮮を助けるため、その対応に忙殺されていた。
             (秀吉の功罪はたくさんありますが、、、、
                  伊万里関係にとってはことごとく好い働きに作用しています。
                            その陰には反対の「悲運」も実在しているわけで、、、)
そんな中、清の初代皇帝 愛新覚羅 太祖(あいしんぎょろ ぬるはち)登場!!
  (ムムッ、愛新覚羅・・・聞いたことがあるゾ。おお!あの「ラストエンペラー」が愛新覚羅溥儀だった・・・編者)
太祖(ぬるはち)は満州の女真族生まれ。
17世紀初頭、13のグループに分かれて争っていたせいで明王朝に上手く分断されていた女真族を統一、満州族と名乗る。
この間、明王朝による介入は全くなく・・・
(て、いうか当時の明王・万暦帝は政治に無関心であり、執着したのは自分の蓄財だけだったということで)
力を持ったヌルハチは北へ南へと勢力を拡大し、明をさらに弱体化させていった。
初代皇帝ヌルハチ死後、3代皇帝フリンの時代1644年、北京を陥落させ明を滅亡させた。

鄭一族は明王朝側であり、清王朝の拡大・統一に抵抗した。
まぁ自分の覇権が壊されるのを守るために必死で戦ったということですね。
明 vs清(満州族)の覇権争いであり、自分の既得権確保の戦い、汗。

それにしても何で「国姓爺」と呼ばれたかというと、、、、
1644年に北京陥落し、逃れた皇族たちは各地で亡命政権を作った。
鄭芝竜らは隆武帝を擁立し、清朝に対して抵抗運動を開始。
父より隆武帝に引き合わされ、いかにも頼れそうな福松は大いに気に入られた。
そのとき「国姓の朱を与える」といわれたが、恐れ多いことと「鄭成功」と名乗るようになった。
それ以降「鄭成功」は国姓爺と呼ばれるようになった。
・・・・人間控えめが非常に好いようで・・・・・見習わねば!笑。
中国においては民族的英雄であり、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」のモデルにもなる。

ここまで読まれた方はそれがどうして伊万里と関係あるねん!
・・・・ですね。
いつもながらに前フリが長い、、、、我ながら絶句、大汗。
でも、これからまた長いよぉーーーー懲りずに読んでね。

唐人コスプレ

日・中ハーフじゃ

国姓爺合戦
1715年、大阪竹本座で初演されると大評判となり17ヶ月のロングラン。
その後、歌舞伎の演目に取り上げられるとまたまた大評判。
歌舞伎の荒事(あらごと)の代表格として今日に伝えられている。

近松の「国姓爺合戦」では鄭成功の名は和藤内と変えられている。
衣装も舞台装置も異国情緒たっぷりで、当時の人々が夢中になった気持ちがよくわかる。

 豊国画

お願いします~

 国姓の朱
 「朱」は明の皇帝の姓。皇族の中に加えられる、あるいは同等の扱いを受けることを意味していた。
 「国姓爺」は名乗らずとも皇帝から国姓を賜っているお方という意味らしい。

第一部  鄭成功 ( ていせいこう ) って誰よ

肥前平戸藩士・田川七左衛門の娘と明国(現在の中国)・福建省出身の鄭芝竜(ていしりゅう)との間に長男として生を受ける。
平戸市川内港近くの千里が浜で、貝拾い中に産気づき、、、岩にもたれかかり出産したという!(ホンマかいな、笑) 時に1624年7月14日。
日本名を福松といい、平戸で育つ。

もちろん平戸では有名人。
今でも毎年7月14日には「鄭成功まつり」が実施されている。

鄭成功は商売人であり、政治家、軍人でも在った訳で
金は出す、口は出す、力も出すというオールランドプレーヤだったのです。
ア~こんなスッパマン(ふ、古)みたいな人今の日本には必要かも。。。。苦笑。



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(ついに伊万里にふれないまま) 第二部につづく・・・・

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